10月25日

 今日は卒業制作のサウンドトラックのレコーディングがあった。中村たちのバンドに、ギター、ベース、ドラムセット、シンセをうちの大学の録音スタジオに持ち込んで、スクリーンで映像を観ながら、セッションしてもらった。私は監督なので、奥の部屋にこもって、マイク越しに「もっとドリーミーな感じで」とか「今のだと意味がありすぎる」とか注文をつける、偉そうな役回り。しかも音楽ができる訳ではないので、イメージしか言えない。まあ、専門用語とか音楽理論で注文する方がイヤな気もする。「そこまで具体的に指示するならお前がやれよ」と言われそうだ。しかし、“監督”という仕事は制作をとおしてそれが仕事だ。俳優の演技に、カメラマンの置いたカメラ位置に、外からああでもないこうでもない言うのが、監督の役割で、つまり作品の“審美眼”であること、ともいえる。そういう意味では、映画監督の仕事にもっとも近いのは、小説家でも劇作家でもなくて、批評家なのだとおもう。批評家は基本的にプレイヤーではない、しかし、作品と対峙することで新たな読みを、意味を生み出す。映像-音声-演技-音楽といった要素を、ディレクションし配置する(=編集する)ことで、作品として成立させる映画監督の仕事は、批評的な営みにおもえる。だから映画監督になりたいのなら映画のことばかり考えていてはダメだ(映画にしか興味ない人間が撮った映画の端々から滲むダサさと言ったら!)、あらゆる分野(それは芸術にかぎらない)に対しての知見がなければいけない、とおもって何でも見てやろうの精神で生きてきたら、最近は西洋音楽史とミニマル・アートとアイドルとゴンチャが主な興味範囲で、ろくに映画を観ていなくて、じぶんが何者になろうとしているのかもう分からない。

 しかし、音楽ってすごいな、とあらためておもう。音楽とはやはりエロス(官能)なのだ。演奏者同士の交感、というものが側から見ているだけでも分かる。そして、どこまでいっても具体的だ。これは映画にはない。映画記号論、ということをここ一年半くらいずっと考えていて、それは何かというと、映画はあらゆる記号を配置することで観客の感情を喚起する装置にすぎない、ということだ。言ってしまえば演技をはじめスクリーンに映るものはみんなウソな訳で、それを“リアル”だと感じるのは観客の内部で起こる。それを上手に発生させてやるのが、映画なのではないか。それはそれで愉しいのだが、音楽にはやはりユーフォリアなものがある。例えば、音楽は観客がいなくても音楽だろうが、観客のいない映画は、ただのゴミでしかない、という気がする。

 実際に録れた劇伴もめちゃくちゃかっこよかったし、じぶんの感覚(結局、ゴダールとリヒターとライヒが好きだ、という)にも近いヴァイブスがあってよかった。映画学科がしょうもなさすぎて、かっこいいものが遠すぎて、もう色々嫌だ、やる気もない、みたいな感じだったのだが、いや、近くにかっけえ奴らがいるじゃん、とおもうと、ひさびさになんか信頼できるものをみつけた気がして、それもすごくよかった。